どもKENTEKOです。
”心の拠り所”って大切ですよね。
最近の私は特にソレを感じます。
私の心の拠り所のひとつであったバイク趣味。
運転資金であったり生活資金であったりを確保する為に売却してから、心に小さな穴が空いた様な感覚がありました。
その穴は決して塞がる事なく、時間や環境の変化によって、大きくなっていった気がします。
色々な人との出会いと別れがありましたが、バイクは自分が別れると思わない限り、そこにあって気が向けば一緒に遊んでくれるツールでした。
しかし私は目先の運転資金の為に売却。
二束三文の買取価格でしたが、なんか大切なもの、気持ちを捨ててしまった気がしているのです。好きなバイクに長く乗りたいがために働いていた、という根本を捨ててしまえば、心が衰弱するのも当然の事で。
儲かったらまた買おう、という目論見も見事に外し、結局失ったという現実だけが残り。
短い期間でしたが、そんなツライ思い出ばかりを作り上げてきた弁当屋仕事に戻って楽しいはずもなく、金金金ッ!!と、目を吊り上げて金の心配ばかりをしてきた生活のフラッシュバックとかね。
大型バイクはうちの駐車場の環境で、乗り出すまでが大変なので止めておきますが、250ccクラスのスクーターを導入しようかなって思いました。
俗にいうビクスクは、これもうちの駐車場環境には大きすぎるので、中でも小さいスクーター。でも150ccではなく、しっかり250ccのスクーターでありたいというのがせめてもの拘り。
整備関連はこれまでなんとなくやってきて、パーツの交換や油脂類交換程度ならできる様になったので、やっていけそうな気がしています。特にスクーターは、特定の工具さえ揃えておけば結構いける。むか~し原付スクーターであるDIOの整備用で購入した工具が250ccのスクーターでも使えるのだ。
車検時期に焦って費用面の事を考えて憂鬱にならずに、気軽に乗りだせるクラスの小さいけど高速道路もいけるんよ的な相棒として。
高速で何キロ出たとかはもう興味ない。
とっくに時効だがふわわkm/hは当たり前の様に出していた時代だった。集団でね。
前後の安全マージンが取れる時にしかそこまでは出さないのだが、昔ミニバンでそこそこで流す我らに頑張ってついてきてた事があったが、あれは追われる身としては非常に怖いので止めて欲しい。
ミラーを見ると休日のお父さんが家族を載せて、ふわわkm/hは出していないが、ぬえわkm/hくらいで後ろにいて、運転しているお父さんの顔が見えるのだ。
何が怖いって、その速度で安全に止まれるブレーキが付いてないでしょって話なのと、こっちが何かあった際に確実に突っ込んでくるよねという車間距離。
お父さん余裕の片手運転してるけど、楽しい家族ドライブが一気に地獄と化す可能性がある事を理解して欲しい。自分の周囲を囲まれての安心感からか無茶しよる。
こっちも法定速度を超えての事なので、誰も褒められた事はない哀愁の空間である。
そういう時代を経て、速度よりも乗り味を楽しむ思考、使いこなす満足感、といった方向に私の思考が向かって行った。そんな時に相棒がない。
ストレス発散ができない。メンタル疾患へ。
実際はこんな簡単な話じゃないけど、でもやっぱり18歳から乗って来てた人生の一部分を捨て去るのはキツイよね。
という事で、あまり大金を使わないレベルでの愛馬を探そうと思うのよねん。
働く意味もそれで見つかるといいな。