どもKENTEKOです。
先日、明け方ころに父が亡くなった。
本当であれば今日は医師との面談で、これからどうしていこうかの相談日であった。
亡くなる前日には母と「なんだかんだ言って数年生きるかもよ」とか言ってた。
施設に入って、たったの11日後。
いやいや、早すぎだろ父よ。
市民病院の医者から聞いた余命は一年半だよ?
それが、癌とわかってからのたったの二か月って。
誰も心の準備ができてないよ。
病気が判った時にした会話、
「俺のおやじが70歳で亡くなったから、それよりも長生きできたからいいわ」って。
いやそんなこと言わずにもっと生きてよと、その時は思ってた。
そこから怒涛の死後準備期間が始まったね。
印刷したものから手書きのものまで、ファイルでいくつもくれた。
「そんなのまだ早いよ」って思ってた。思いたかったから、受け取っても中も見ずに積み重ねていた。
それがすごい早いタイミングでやってきてしまった。
もっとゆっくりでもよかったのに。
胃壁が腫れあがり食事が喉を通らない状況になったことで、自分の最期を悟ったのか。
施設に入りベッドに横になりながら、俺を視線で追ってたのは目に焼き付けていたのだろうか。こんなおっさんを目に焼き付けても目の保養にもならんと思うが(笑)かわいい娘だったらまだねぇ(;^_^A
家族とはいえ、ある程度年齢がいくと男同士、あまり色々と話すこともなかったが、それでも家という空間で存在を感じ取ることで家族という存在を意識することができた。
虫の知らせがあった。
耳元で「もしもし?」という父の声で夜中に目が覚めた。
こちらも寝ぼけて「ん?お父さん?」って返事したりして。
後で聞くと、ちょうど夜中のそんなやりとりをしていたころ、体調悪化が始まっていたとのことなので「おい、起きろ!俺大変なことになってるんだけど!もしもし?」って伝えにきたのか。
ただ「もしもし」の声は非常に穏やかというか、ちょっと声が弾んでる感じにも聞こえた。
それはここ最近でもよく父と死後の世界はあるのかということを話し合ってたりして、あるといいよねって意気投合してたことがあり、「おい!やっぱり死後はあったぞ!意識あるもん!!もしもし?」と伝えに来たようにも感じられた。
どちらかというとこっちの方じゃないかなって思えるのだ。
なぜ呼びかけが「もしもし」だったのかは謎なんだけど。
明け方付近に家族に連絡がつき、施設に到着した時には酸素吸入をしていた。
だが、自力呼吸はできていない状況だった。
かすかに口が動くので、母が「なんか返事をしているのかも」とか言っていたが、あれは最大値まで動かした酸素吸入機の動きでなっていただけと後で知った。
家族が到着するまでの間際の体裁を整えてくれたということらしかった。
「こうもあっけなく」というのが、その場に居た家族全員の感想。
私が一度施設を出て、近くに住む親せきを迎えにいき戻ると、呼吸器は取り外されていた。それを見て亡くなったことを理解した。
とても穏やかな顔だった。
父の父、つまり祖父も胃がんだったと父の兄から聞いた。
それはもう痛みに苦しんだ闘病期間だったと。
それに比べたら、そんな長い間を苦しまずに逝けたのは、祖父がかわいそうだと助けてくれたのかもしれないと思った。
母と話すときに、父がまだ家にいる気がする、とか言ってみたりするのだが、本心のところでは、もう父は先へ向かってしまった気がしている。
いつでも様子を見に戻れるからということもありそう。
それに「後は生きてるもんで上手くやっていってくれ。俺のことは心配するなよ」とか言ってそうと感じるのだ。
引き続き生きる我々のことは、きっと時間が癒してくれる。